風色の本だな

風色の本だな

浜田広介『泣いた赤おに』

 
 ◆浜田広介「泣いた赤おに」◆


先日、7月1日(月)に、児童文学講座の3回目に行ってきましたので、またご報告しますね。
テーマは、浜田広介の「泣いた赤おに」です。
まず、浜田広介の作品がいくつか紹介されました。
●「一つの願い」 
●「むくどりの夢」 
●「ますとおじいさん」
●「りゅうの目のなみだ」
●「泣いた赤おに」 

浜田広介は、日本のアンデルセンとも言われ、かなりアンデルセンの影響を受けています。

砂田氏が、絵本「泣いた赤おに」を朗読されました。

この作品には、友情の美しさと孤独の淋しさの対比があり、また、そこには、自己犠牲愛があります。まさに「善意の文学」であり、それは彼の文学すべてに通じるものがあります。

スペイン文学の研究者であった、広介の長男によると、広介は、いつも途中、声に出して読みながら、童話を創っていたそうです。まさに朗読をし、何回も何回も手を入れて直す。耳で聞いてもらうために、声に出しながら原稿を書いていたのだそうです。

お子さんたちは、いつもお父さんの朗読を子守唄代わりに聞きながら、育ったとのことでした。

そのために、ひろすけ童話の文体は5・7調で、とってもリズミカルな仕上がりになっています。

ひろすけ童話のすべてに通じるキーワードとして、内容的には:願い→待つ→涙で幕を閉じる・・・ という流れがあり、文体としては、5・7調で、高らかに謳い上げるという形になっています。

そしてまた、1950年代半ば過ぎから、新しい世代が、日本の伝統童話を批判します。一度批判し、伝統童話を乗り越えなければ、新しい文学を生み出すことができなかったのです。

もちろん「泣いた赤おに」も痛烈な批判を受けました。

批判された内容は、まず、書き出しについて・・・。

「どこの山だかわかりません・・・」は、無茶である。時・場所・人物がはっきりしない。

「きこりがすんでいるのでしょうか?いいえ、そうではありません。クマが住んでいるのでしょうか?いいえ・・・・」は子どもを混乱させる。よくわかるものが子どもの文学であることを忘れてはならない。

そして、「確かに鬼の字だなあ!」は、なんで鬼の字とわかるのか?鬼がお菓子をどうやって用意するのか?いかにでっち上げかを批判し、最後は感傷、センチメンタル以外のなにものでもないと批判する。

ところが砂田氏に言わせれば、書き出しは、はっきりしないのではなく、語りのテクニックであり、レトリックなのです。私もそう思いました。

しかし、こんなに痛烈な批判を浴びながら、なおも「泣いた赤おに」が根強く読み継がれてきたのは、保育者や、教育者に愛読者が多く、長い間子どもたちへの読み聞かせに使われてきたからなのだそうです。

そして、恒例の学生レポートをピックアップして読み上げてくれました。これがなかなか興味深い!

〇自分が「泣いた赤おに」に出会ったのは、紙芝居だった。赤おには、角の跡はあったが、角はなかった。そもそもこの赤おには、鬼の中では異端児だったのではないか。“やさしさ”を持っているという点において・・・・。(なぜ、角がなかったのかという考察)

〇自分は高校生のとき、この「泣いた赤おに」をマンガ化した。絵はうまくなかったにもかかわらず、当時小学校の中学年だった弟は、感動して泣いていた。テーマは一見“やさしさ”であるが、”犠牲”だと思う。赤おにの涙は一体なにに対して流したものだろうか?心やさしき者は、誰かの犠牲の上に成り立った自らの幸せを思い、申し訳なさで涙するのである。

〇青おにが、犠牲になって赤おにが人間と仲良く暮らせるようになったのであるが、果たしてそれで良い結果を生み出すことができるのか?人を犠牲にまでして幸せになろうとすると、必ず自分にそのつけが回ってくるはずである。
私はこの物語から逆に、幸せは自分自身の手で手に入れるものだということを学び取った。

〇この物語の赤おには、現代の若者の友だち観と重ね合わせることができる。
今の若者は、一度しか会ったことがない人にも携帯の番号を教える。そして教え合えばもう友だちと呼べるのだ。だから友だちが50人いるとも、100人いるとも言える。うわべだけの薄っぺらい付き合いだ。それより、たった一人の青おにという友だちを大切にしたほうが良かったのではないか?しかし現代の若者と赤おにとのちがいは、赤おには、クライマックスシーンで本当の友情とは何か に気づいたということだ。

次のレポートは砂田氏が一番感心したレポートのようでした。↓

〇この作品にはどこにも敵が登場しない。皆、親切で心やさしい。
ラストは、友情の美しさとは別に、友との別れがある。私は、ここでキーワードとしての“別れ”をあげたい。青おには、赤おにのために旅立ちを決意する。そこには無償の愛があるのだ。
世の中にはどんなに深い愛を持っても別れなければならないことがある。子どもたちにとっても、別れは突然やってくる。人間には運命的などうしょうもない別れがある。例えば、突然の死。友達の突然の引越し・・・etc。子どもたちにも旅立ちを祝福し、別れなければならない状況はいくらでもあると思う。深い悲しみはあるけれど、それを乗り越えてこそ、美しく生きられる。そこに希望的な光があるのだと思う。

砂田氏は最後に言いました。

「若者たちのレポートは、その作品に新しい命を吹きこんで、再びよみがえらせてくれる。若者たちの読み方は、いつも私が気がつかなかったことを私に教えてくれるのです。」
こんなに立派な児童文学者が、実は自分は学生たちに教えながら、一方で学生たちに教えられているのだということに気づかれているんですね。

きっとそこでは、すばらしい授業が展開されているのだろうと思いました。





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